戦国時代の英雄 武田信玄公 〜人は城、人は石垣、人は堀〜
甲斐源氏と武田一族 19第国主・信玄公
武田一族の祖は、平安時代後期、甲斐国に誕生した武士集団・甲斐源氏。
源平の合戦で活躍し、富士川の合戦、一の谷の戦い壇ノ浦の戦いで奮戦し「平家物語」「源平盛衰記」「吾妻鏡」など軍紀物の名場面を彩る。
●甲府の名前は、永正十六年(1519)武田信虎がこの地に館を置き「甲斐府中」と定めたことに始まる。府中とは政治を行う場所のこと。武田氏の館は現在の武田神社の地で躑躅ヶ崎にあったことから躑躅ヶ崎の館と呼ばれた。
●信玄は、甲府に館がおかれた、 2年後、館の北東の要害城(積翠寺)で誕生した。父は信虎、母は大井夫人。誕生の地には「産湯の井戸」が残される。これより甲府は、
信虎、信玄、勝頼と、武田三代六十余年の栄華の地となる。
信玄の領国経営は、二十年の歳月をかけた信玄堤をはじめ、恩恵は今日におよぶ。
●信玄堤一は甲府盆地を洪水から守る治水工事で、普通の一直線の堤防ではなく、何本もの堤防を重ねて川を取り囲む工法。また、経済力の強化を図る「金山開発」、甲斐九筋の街道整備、五十七カ条の法律「甲州法度」、独自の量制「甲州桝」などを制定した。
●戦国時代の名勝負、信玄、謙信による川中島の合戦は、十二年間に五度におよんだ。川中島は千曲川と犀川が合流する穀倉地帯で、交通の要衝。信玄、謙信ともに譲れず、領有化したい土地だった。最大の合戦は第四次の戦い。信玄は二万、謙信は一万三千の軍勢。戦死者は七千人に達したが、ついに決着はつかなかった。
「人は城」の国づくり、軍旗「風林火山」の戦略
●信玄が自立し国主となったのは天文十年(1541)、21歳のとき。幼名は勝千代、仮
名は太郎、元服して晴信。やがて出家して信玄とあらためる。
●信玄の「国づくり」の理念は「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、あだは敵なり」で、国全体が城であり、
人の和こそ、まさに山河の険しさに匹敵すると信じた。事実、生涯を通じ、敵に甲斐の地を一歩なりとも踏ませることはなかった。
●武田軍の陣頭には、常に「風林火山」の軍旗か立てられた。中国の孫子の兵法で「はやきこと風のごとく・しずかなること林のごとく・しんりやくすること火のごとく・うごかざること山のごとし」の意。信玄の生涯にわたる合戦の数は、百三十余度という。まさに戦国のまっただ中だった。
武田三代60余年の栄華
●川中島の合戦の後、元亀三年(1572)、信玄は京を月指しての最後の出陣をする。
采配を振るう信玄はこのとき五十一歳。すでに肺の病は重かったという。
●十二月二十二日、三方ヶ原の合戦で徳川家康軍に大打撃を与えて三河へ進出、明けて一月十四日、野田城を包囲し、一ヶ月後には城を落として長篠城へ入っていった。信玄の夢、天ドに号令する日は、すぐ目前にあった。
●しかし、病状は悪化、いったん甲府へ引き上げなければならない状況となる。西上作戦なかば、胸中無念にして信玄が倒れたのは四月十二日、信州伊那においてだった。享年五十三歳。遺言は「三年の間、わが喪を秘すべし」。勝頼が夢を実現してくれるはずと信じた。
平成00年甲府市観光協会発行のパンフレットより引用
武田家年表
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年表 | |
永正4年(1507) | ○信虎、父・信縄の死により武田家の家督を継ぐ |
永正16年(1519) | ○信虎・大井夫人、獅濁ヶ崎の館に移る |
大永元年1521) | ○大井夫人男子を出産、幼名勝千代、元服後隋信、筏の信玄 |
天文5年(1536) | ○無千代元服し、晴信と名乗る |
○三条公頼の娘を妻に迎える | |
天文10年(1541) | ○晴信、父・信虎を駿河に追放、甲斐国主となる |
天文11年(1542) | ○晴信、諏訪頼重を攻める |
天文16年(1547) | ○晴信、甲州法度を制定 |
天文22年(1553) | ○川中島の戦い(第1回) |
弘治元年(1555) | ○川中鳥の戦い(第2回) |
弘治3年(1557) | ○川中島の戦い(第3回) |
永禄2年(1559) | ○晴信は得度し、徳栄軒信玄と称する。号は磯山 |
永禄3年(1560) | ○信玄堤、完成 |
永禄4年(1561) | ○川中島の戦い(第4回)山本勘助ら峨死 |
永禄7年(1564) | ○川中島の戦い(第5回) |
元亀3年(1572) | ○信玄、上洛を目指し出陣 |
○三方ヶ原の合戦で徳川萬に大勝 | |
天正元年(1573) | ○信玄、信濃伊那郡駒場にて病死 |
○無頼が寒督を継ぐ | |
天正3年(1575) | ○勝頼、長篠の合戦において織田・徳川連合璽に敗れる |
天正9年(1581) | ○勝頼、脈躍ヶ崎の館から新府城に移る |
天正10年(1582) | ○勝輔、織田軍の攻撃を受け天目山の麗にて自刃 |
○武田氏滅亡 | |