武田二十四将
武田二十四将は、信玄の家臣団から選ばれた智将・勇将。江戸時代、軍記物に基づき浮世絵師が描いたもので、信玄を含む二十四将、信玄と二十四将など、図柄も色々で、顔ぶれも異なる。「二十四」は日本人の好む数字で「二十四孝」と相通ずる。
山本勘助晴幸
やまもとかんすけはるゆき
~永禄4年
信玄を補佐した隻眼の軍師三河国牛窪出身の牢人で、諸国を遍歴し兵法や築城術を会得。軍師として重用された。信玄の出家とともに剃髪して、道鬼斎と称したo第4回川中島の戦いで、「啄木鳥の戦法」を進言するが失敗し、責任を痛感して、乱戦の中に身を投じて戦死した。
土屋右衛門尉昌続
つちやうえもんのじょうまさつぐ
天文14年~天正3年
信玄が育てた文武両道の武将武田氏の譜代家老、もとは金丸平八郎と称した。信玄の奥近習六人に選抜される。永禄四年の川中島の戦いでは、本陣の信玄を警固して動じなかったことから、名族土屋氏の名跡を与えられた。天正三年の長篠の合戦で戦死した。
小山田左兵衛尉信茂
おやまださひょうえのじょうのぶしげ
天文9年~天正10年
都留郡を支配した名族小山田氏は、武田家の一門衆(御親類衆)の待遇を受けた名族で、中津森(後に谷村)に館を構えて、都留郡を支配した豪族であった。勝頼の時には、武田信豊とともに武田氏を支えた。武田氏滅亡後、織田軍に捕らわれ、甲斐善光寺で処刑された。
武田刑部少輔信廉
たけだぎょうぶのしょうのぶかど
天文元年~天正10年
文武両道の武将 信虎の三男(実は四男)。生母は大井氏。仮名は孫六。兄信繁とともに、信玄を支えた。画家としての実績も著名で、父武田信虎画像、母大井夫人画像などを残している。兄信玄の死後、出家して逍這軒信綱と称し、勝頼を補佐した。
真田源太左衛門尉信綱
さなだげんたざえもんのじょうのぶつな
文6年~天正3年
勝頼を救った真田兄弟 真田幸隆の嫡男。信玄晩年の合戦には、ほとんど参加している。奇襲戦法を得意とし、三方ヶ原の合戦では総指揮官を務める。長篠の合戦で、弟昌輝とともに、勝頼を逃がすために奮戦して戦死した。
横田備中守高松
よこたびっちゅうのかみたかとし
長享元年~天文19年
信虎・信玄を支えた足軽大将 「甲陽の五名臣」の一人。騎馬三十騎、足軽百人を率いる足軽大将として、信虎・信玄二代の重要な作戦のうち、34度に参加し、そのため全身に31ヶ所の疵痕があったと伝わる。
内藤修理亮昌豊
ないとうしゅりのすけまさとよ
?~天正3年
上野国箕輪城主として上杉・北条を牽制 武田家の譜代家老工藤氏の出身。内藤家の名跡を継ぎ、修理亮を称した。実名は昌秀。信玄の側近、奉行として重用され、重要な作戦のほとんどに参加した。箕輪城代となり、上杉・北条両氏の動向を監視する任を担う。長篠の合戦で戦死。
板垣駿河守信方
いたがきするがのかみのぶかた
?~天文17年
信虎・信玄の筆頭家老 武田氏の譜代家老で、両職(りょうしき)という最高職に就任していた重臣。板垣氏は甲斐源氏の支流にあたり、武田氏を支えて活躍した。信虎追放の際には、信玄を支えて中心的役割を果たしたと伝わる。信玄の師。
穴山玄蕃頭信君
あなやまげんばのかみのぶぎみ
天文10年~天正10年
信玄・勝頼を補佐した一族 武田氏の一門衆(御親類衆)の筆頭。穴山氏は、甲斐源氏の支流。母は信玄の姉南松院殿、正室は信玄の息女見性院殿。出家して梅雪斎不白と名乗った。
高坂弾正忠昌信
こうさかだんじょうのじょうまさのぶ
大永7年~天正6年
信玄の寵臣で『甲陽軍艦』の作者 石和の大百姓の子。信玄に見いだされて近習となり、その後小諸城代、海津城代に任命されるなど、異例の出世を遂げた。信玄の言行や行動哲学などをまとめた書物を書き上げ、これが『甲陽軍鑑』の原本とされる。
真田弾正忠幸隆
さなだだんじょうのじょうゆきたか
永正10年~天正2年
信玄が信頼した知謀の武将 実名は幸綱。信濃経略に功績があった。信玄が落とせずに敗れた戸石城を一日で攻め落とし村上義清追放のために活躍した。信玄にならって自らも出家し、一徳斎と号した。川中島の戦いや、上野国経略で戦功がある。
甘利備前守虎泰
あまりびぜんのかみとらやす
?~天文17年
板垣信方と並ぶ武田家の重臣 武田氏の譜代家老で、板垣信方とともに両職という最高職に就任していた重臣。信虎・信玄二代の重要な作戦のほとんどに参加した。信玄が村上義清と戦い、始めての敗戦を喫した上田原の合戦で戦死した。
原隼人佑昌胤
はらはやとのすけまさたね
?~天正3年
武田軍の陣場奉行を務めた知将 信虎に仕えた譜代家老原加賀守昌俊の子で、信玄に登用された。武田軍の陣立てなどを立案する陣場奉行を命じられ、信玄の側近、奉行としても活躍した。信玄の晩年には、山県昌景とともに、武田家の最高職である両職を担ったo長篠の合戦で戦死。
三枝勘解由左衛門尉守友
さいぐさかげゆざえもんのじょうもりとも
天文6年~天正3年
山県昌景も認めた猛将 奥近習六人の一人に抜擢され、後、足軽大将に任じられ、騎馬三十騎、足軽七十人を預けられた。武勇でも知られ、これに感心した山県昌景が腰刀を授け、山県姓を与え、山県善右衛門と名乗らせたという。
多田淡路守満頼
ただあわじのかみみつより
?~永禄6年
鬼退治伝説の猛将 美濃の出身。信虎以来、数多くの合戦に参加し、感状をもらうこと29度に及び、そのため全身に27ヶ所の疵痕があったという。信濃虚空蔵砦を警固していた時に、現れた鬼を退治したとの伝説がある。
馬場美濃守信春
ばばみののかみのぶはる
?~天正3年
武勇に優れた築城術の名手 川中島の戦いでは、山本勘助とともに「啄木鳥の戦法」を立案し信玄に献策。また、山本勘助より築城術を学んだ。長篠の合戦で殿軍を担い、勝頼を逃がすため奮戦して戦死した。その戦いぶりは、織田方も称えた。
武田典厩信繁
たけだてんきゅうのぶしげ
大永5年~永禄4年
武田家の副将軍 信虎の次男(実は三男)。生母は大井氏。仮名は次郎(二郎)で、元服して信繁と名乗り、左馬助の官途を称し、その唐名が典厩である。文武に優れ、信玄を支えて信濃経略で活躍し、ほとんどの作戦に参加した。川中島で壮烈な戦死を遂げた。
山県三郎右兵衛尉昌景
やまがたさぶろううひょうえのじょうまさかげ
?~天正3年
武田軍の赤備えを組織した猛将 飯富虎昌の弟。兄虎昌が義信事件に連座して処刑されると、信玄の命により、名門山県氏の名跡を継ぎ、譜代家老に連なった。山県隊は装備を赤で統一していたことから、「山県の赤備え」と呼ばれた。長篠の合戦で戦死した。
小畠山城守虎盛
おばたやましろのかみとらもり
延徳3年~永禄4年
高坂弾正を補佐した猛将 信虎・信玄二代の重要な作戦のほとんどに参加した。「甲陽の五名臣」の一人。海津城に高坂弾正の補佐役として在城した。川中島の合戦の直前に病没。「よくみのほどをしれ」と子息に遺言した。
小幡豊後守昌盛
おばたぶんごのかみまさもり
天文3年~天正10年
信玄を敬慕した忠臣 小畠虎盛の息子。家督を継ぎ、「小幡」にあらためた。武田氏滅亡の際は、病気のため勝頼に従うことができず、甲斐善光寺門前で暇乞いをしてまもなく死去した。「甲陽軍鑑」の編者小幡景憲は、昌盛の三男。
一条右衛門太夫信竜
いちじょううえもんのたゆうのぶたつ
?~天正10年
武田宗家に殉じた一族 信虎の七男(実は八男)。信玄の異母弟。合戦に際して慌てぬように、常日ごろから、武具の手入れや更新を怠らなかった。また、諸国の牢人の中から、選抜した人材を召し抱えるよう心掛け、信玄や家臣達から賞賛された。
秋山伯者守信友
あきやまほうきのかみのぶとも
大永7年~天正3年
織田信長と対峙した勇将 秋山氏は、甲斐源氏の支流で、武田家の譜代家老の家柄。実名は虎繁。信玄の信濃国伊那郡制圧に伴い、高遠城代、次いで飯田城代を歴任。織田・徳川氏を監視する役割を担った。長篠敗戦後、織田信忠軍に包囲されて降伏し、岐阜で処刑された。
飯富兵部少輔虎昌
おぶひょうぶのしょうとらまさ
?~永禄8年
信虎・信玄・義信を支えた反骨の老臣 武田家の譜代家老で、山県昌景の実兄。信虎・信玄二代の重要な作戦のほとんどに参加し、活躍したo信玄の嫡男義信の傅役を務めた。信玄と義信が対立すると、虎昌は立場上、義信を擁護せざるをえず、責任を一身に背負って刑場の露と消えた。
原美濃守虎胤
はらみののかみとらたね
明応6年~永禄7年
鬼美濃と恐れられた猛将 部下十人で百人分の働きをするといわれ、武田家から賜った感状は38通、全身の傷痕は53ヶ所に及び、鬼美濃と恐れられた。信玄の勘気を蒙り、牢人となり、北条氏康に仕え、まもなく呼び戻されたと伝わる。信玄の出家とともに剃髪し、清岸と号したo